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ヨセフについて

 昨年の春から、町の牧師さんのところで聖書を読んでる。
 旧約聖書の創世記を一通り読み終え、今は新約の福音書だ。
 何しろ、その道の専門家がついているので、一人で読むよりもはるかに深く理解できる。というか、一人では読み通すことすらできなかったと思う。
 なぜかというと、遠い昔の、遠く離れた場所が舞台で、それを想像するにはまったく知識がかけているし、非常にそっけない語り口が多いので、登場人物になかなか感情移入しにくく、物語に入っていくことが難しいのだ。
 自分が聖書というからにはさぞ立派な人たちの行いが描かれているんだろうと思い込んでいたことも一つの壁になっていたのかもしれない。しかし、この牧師さんが言った言葉でもっと楽に読んでいいんだということがわかった。
「聖書にはね、まともな人はほとんど出てこないんですよ」
 そのまともでない人たちが犯した罪を抱え、それでも神が見捨てずについていたために少しずつ変わって行ったりすることが描かれている、そんな書物であるらしい。創世記の中の人物も、人として弱かったり、ずるがしこかったりするが、読み進めていくうちにその一人一人が魅力的に見えてくるから不思議だ。
 そんななかで、自分が一番好きなのは、創世記の最後の主人公である、ヨセフだ。聖書に出てくる、数少ないまともな人間の一人でもある(笑)。
 ヨセフの父、ヤコブには4人の妻がいたが、その中で本当に愛したのはラケルだけだった。ヨセフはラケルの産んだ子どもで、しかも年をとってから生まれた子どもだったので、ヤコブはヨセフのことを最もかわいがった。
 ヤコブは自分の気持ちに正直な人だったので、ヨセフをあからさまにひいきした。そんなことから、ヨセフは他の兄弟たちからねたまれることになる。
 あるとき、父の使いで、ヨセフが他の兄弟たちのところに行くと、兄弟たちはみなで彼を捕らえ、イシマエル人の隊商に売り飛ばしてしまう。そして父ヤコブには、ヨセフは獣に食べられてしまったと報告する。
 ヨセフはその後エジプトの侍衛長の家に売られ、そこで奴隷として働くことになる。若くて容姿が良く、賢くて気性もまっすぐなヨセフは、家の主人に気に入られ、まもなくその家のことのすべてを任されるようになる。ところが、主人の妻にせまられる。ヨセフはかたくなに拒み続けるが、逆に彼女に、彼女を襲おうとしたという濡れ衣をきせられて、牢屋に入れられてしまう。
 話はずれるが、このエピソードを種にした物語がイスラム教の神秘主義者によって書かれている。「ユースフとズライハ」という物語で、ズライハがその家の妻の名前らしい。イスラム教でも聖書はコーランやハディースに次ぐ聖典で、同じアブラハムの宗教、同じ神を信じる兄弟の宗教なのだ。ちなみにヨセフはユースフとして、コーランにも出てくる。
 牢屋に入れられたヨセフは、このようなつらい時期にあっても、決して絶望しない。おそらく神を信じ、主がそばにおられる事を感じていたからで、悪いことがおきてもそこからさらに落ちることがないのだ。
 あるとき、エジプトのパロの給仕役が見た夢をヨセフが解いたことをきっかけにして、パロ本人が見た夢を解くことになる。それは、エジプトの7年間の大豊作とその後の7年間の大飢饉を予言するものだった。この解き明かしを聞いて、パロはヨセフをエジプトの宰相に任命する。
 自分の兄弟の裏切りのために、奴隷から囚人を経て、一国の宰相にまでなったヨセフだが、これは一人の男のサクセスストーリーではない。彼の物語の核心はこのあとに来る。
 最初の7年の豊作の年の間にやがて来る大飢饉にそなえてさまざまな準備をしたので、エジプトは被害を最小限に抑えることができた。それどころか、同じように飢饉にあった近隣の国から食糧を買い求める人がやってきたので、かえって国力が増すことになる。
 ヨセフの父、ヤコブとその兄弟たちの住むカナンの地も飢饉となり、ヤコブはヨセフの兄弟たちに命じてエジプトに食糧を買いに行かせる。末の弟ベニヤミン(ヨセフと同じ母から生まれたただ一人の弟)だけがヤコブの元に残り、残りの兄弟全員がエジプトに発つ。こんなところにも、ヤコブの偏愛が現れている。
 彼らはエジプトに着くと、ヨセフと面会し、食糧を買いに来たことを告げる。ヨセフは一目で兄たちだということがわかるが、兄たちは、エジプトの装束に身を包み、エジプトの言葉を話す目の前の男が、かつて自分たちが奴隷商人に売り飛ばした弟だとはまったく気づかない。
 ここからのヨセフは、今までの品行方正な彼とは思えないような言動の連続だ。兄たちをエジプトの動静を探るためにやってきたスパイだときめつけ、牢屋に入れてしまう。そして、兄たちのうち、一人を人質として残し、末の弟を連れてくることを条件に彼らを釈放する。彼らは、父ヤコブのベニヤミンへの偏愛を知っていたから、そんなことをしたら年老いた父は死んでしまうと抗弁するが、ヨセフは聞き入れない。そして、彼らを釈放する際に用意した食料の中に、彼らが用意した代金をそのまま入れておいたりもする。
 ここのくだりのヨセフについての描写は聖書のほかの場所に比べると非常に詳しい。兄たちについに会えた喜び、自分のことを名乗り出たい気持ち、兄たちに対する恨み、そんな複雑な感情に振り回されるヨセフの心の揺れや葛藤が手に取るように見える。
 兄弟たちは父ヤコブの元に帰り着くが、末の弟ベニヤミンを手放したくない彼はエジプトに彼を行かせることに同意しない。兄弟たちもそれ以上このことに触れることはせず、彼らがエジプトから持って帰った食料を食べつくすまで無為に時間を過ごす。
 食料がなくなると、ヤコブは兄弟たちに再びエジプトに行って食糧を買ってくるように命じる。しかし兄弟たちはベニヤミンを連れて行かなければ、行く事はできないという。それでも首を縦に振らないヤコブに対し、兄弟の一人のユダが、ベニヤミンは必ず無事に連れ帰る、何かがあったときは、自分が身代わりになるということを約束し、ようやくヤコブも腹をくくって彼らを送り出す。
 エジプトに着いた彼らは、ヨセフの家に招待され、食事を共にする。そのときに席が兄弟の年の順にきちんとそろえられてあり、彼らは顔を見合わせるが、それでもヨセフのことには気づかない。
 このように彼らをもてなし、食料などの荷物を整えさせる段階で、ヨセフは家づかさに命じて自分の家の銀の杯をベニヤミンの荷物の中に忍び込ませておく。翌朝、彼らがエジプトを出るときに家づかさに後をおわせ、彼らが銀杯を盗んだと言って、再びヨセフのもとに連れ帰らせる。
 どうしてあなた方は善に悪をもって報いるのかと問い詰めるヨセフ。何のことだかわからない兄弟たち。ヨセフは、彼らの荷物をあけて調べさせると、ベニヤミンの荷物から、彼の家の銀杯が出てくる。ヨセフは、盗んだ犯人を自分の奴隷とするという。兄弟たちは、彼だけを置いていくわけには行かない、われわれ全員あなたの奴隷となると言う。ヨセフは、奴隷となるのは犯人だけでよい、他のものは父のもとに帰れと突っぱねる。
 そのとき、ユダが前に進み出て、このベニヤミンを父ヤコブがどれだけ愛しているかということ、彼の同母の兄(ヨセフのこと)が行方不明になって以来、ベニヤミンだけが生きがいで、彼をつれて帰らなければ父は悲しみのうちに死んでしまい、自分は父に対して永久に罪を負ってしまうこと、そうするくらいならば、自分を彼の代わりに奴隷として使えさせてほしい、ということをヨセフに向かってとうとうと語った。
 それを聞いて、ヨセフは感情を抑えきれなくなり、人払いをすると、兄弟たちに自分がヨセフであることを明かす。
 「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売ったものです。しかしわたしをここに売ったことを嘆くことも悔やむこともいりません」
 ヨセフは、今までの出来事はすべて神のご配剤であり、われわれをこの飢饉から救うために自分をここに遣わしたのだという。だからもう、昔のことは悔やまなくてよいのだ、と。
 そして、飢饉の激しいカナンの地から父ヤコブをはじめ一族全員をエジプトのゴセンという、羊を飼うのに適した土地に住まわせ、彼はエジプトの宰相としてその後も善政を敷いた。
 
 この物語のクライマックスのところは、何度読んでも感動する。なんという、大きな赦しだろう。今までのつらい思い、うらみ、そういったものがすべて昇華されて、神の摂理、配剤となる。しかしここに至るまで、どれだけの忍耐が必要だったことか。こんな美しい結末を得る前に、投げ出してしまったことはいくつあるだろう、と自分を振り返って思う。生きている間に、せめて一度くらいは、このような感動を得たい、と思う。
 
 
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チクホー男子☆登校編

 たまたま読んだこの漫画。
http://www.moae.jp/comic/chikuhodanshi/1
 面白すぎる。かっぱえびせんみたいに止められない。
 田舎のヤンキーの高校生二人が、通学の電車の中で、ただひたすらどうでもいいことを筑豊弁でだらだらとしゃべっているだけなのに、何でこんなに面白い?
 ほんとに毎回毎回、ただそれだけで、なにもおこらないし、学校にすら着かない。それでどうして連載作品として成立できるのか?
 この作者、天才じゃなかろうか。

美味しんぼ、負けるな

 ビッグコミックスピリッツで連載されている、美味しんぼという作品が大変物議をかもしている。
 登場人物が、原発事故以降の福島を訪れたときに鼻血を出したという描写があって、それを井戸川前双葉町長(実名で登場)が、それは被爆が原因だと言ったところ。
 いったい何が問題なのか?あの事故以来、たくさんの人が鼻血を出したことは、自分も聞いていて、ここではじめて知ったことではないし、それが被爆によるものだということは、容易に想像できることだ。
 立証できていることではないかもしれない。でも真っ先に疑うべきことだし、真摯に検証していくべきことだろう。みんなわかっていたはずのことなのに、それをはっきりと言われたところで、いまさら何をうろたえているのかわからない。
 責められるべきは、絶対に安全といって原発を作り続け、事故を起こし、その後始末をできていない国や東電であって、きちんとした取材に基づいて今福島に起きている事実を公表した美味しんぼではないだろう。
 よかったら、下のリンクも見てみてください。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/139580
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2014051402000163.html

世界を、こんなふうに見てごらん

 最近、すっかり読書から遠ざかってしまった私。
 それでも本屋に行くことは好きで、特に買うあてもなく、本を眺めているだけでいくらでも時間がつぶせます。
 そうやっていると、時々本が呼ぶというか、読んでみたい本に出会うことがあります。
 背表紙だけで、そう感じるのですから、その本の何を知っているというわけでもないのですが、不思議なことに今までそうやって買った本に、ほとんど外れはありません。
 この本もそんな一冊。
 日高敏隆先生の「世界を、こんなふうに見てごらん」

世界を、こんなふうに見てごらん (集英社文庫)世界を、こんなふうに見てごらん (集英社文庫)
(2013/01/18)
日高 敏隆

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 この題名の呼びかける感じのやわらかさ。大人が、子どもにむけてやさしく語りかけているようです。
 日高先生は、動物行動学の高名な学者さんですが、子どものころは、スパルタ式の学校があわなくて、自殺をしようと思ったこともあったそうです。昆虫少年で、好きなものは好き、上から生きかたを押し付けられるのは大嫌い。そんな生きかたを貫き通した方のものの見方は、やわらかくて、しなやかで、力強いです。
 私ごときがあれこれ言うよりも、冒頭の一説を紹介するほうが、この本の魅力をずっとよく伝えてくれます。
 ぜひご一読を。

「子どものころ、ぼくは、虫と話がしたかった。
 おまえどこに行くの。何を探してるの。
 虫は答えないけれど、一生懸命歩いていって、
 その先の葉っぱを食べはじめた。
 そう、おまえ、これが食べたかったの。
 言葉の代わりに、見て気がついていくことで、
 その虫の気持ちがわかる気がした。
 するとかわいくなる。うれしくなる。
 それが、ぼくの、いきものを見つめる原点だ。
 どうやって生きているのかを知りたいのだ。
 おまえ、こんなことしているの。
 そうなの、こういうふうに生きているの。
 その物語がわかれば、すごく親しくなれる。
 みな、ようよう今の環境に適応して生きている。
 生きることへの深い共感は、そうやって生まれてくる。

 世界を、こんなふうに見てごらん。
 この本を、これからの少年少女と大人に贈る。
 人間や動物を見るときのぼくなりのヒントをまとめたものだ。
 生きているとはどういうことか、
 豊かな見方をするといいと思う。」

泣き虫ハァちゃん

 河合隼雄さんの幼少のころの自伝であり、絶筆の「泣き虫ハァちゃん」をご紹介します。
 河合隼雄さんといえば、ユング派の心理学者の草分けであり、文化庁の長官にまでなった人なので、ご存知の方は多いと思います。
 昔から、この人の本はよく読んでいて、その温かみというか、包容力に、尊敬の念を抱いてきました。
 この人の文章は、学者の文章でありながら、平明で難しいところはひとつもありません。それでいながら、言っていることはとても深い。この文章の平明さと深さを併せ持つところでは、他には、法隆寺の棟梁であった、西岡常一さんくらいしか思い当たる人はありません。(まったくタイプは違いますが)
 この人は、人間というものが、善も悪もなす存在であることを熟知していて、だからこそ、なされてしまった罪や悪について簡単に判断することをしません。そうやって、判断を保留しながら、その人の心の奥底まで一緒に降りていく。そこで、心がもつれてしまったところを探り当て、その本人と一緒にそれをほぐしていくのです。
 というと簡単なことのように思えますが、これはとんでもなく難しい作業です。誰でも負の面は持っていますが、それを真正面から受け止めることは、とてつもないエネルギーが必要です。時には、いやな気持ちになりながら、それでも嫌いになりきることをせずにその人の苦しみに寄り添っていく。たとえ、その人がよくなる方法を知っていたとしても、それは安易に口に出すことはできません。それができない、あるいは見つけることができないことも、その人の人格であるからです。そうやって、なるべく何もせずに、ただ寄り添っていくことの無力さ。無力だけれども、一緒にいなければならない苦しさ。
 
 さて、「泣き虫ハァちゃん」ですが、これを読もうと思ったきっかけは、作家の小川洋子さんがやっている、ラジオの書評番組を聴いたことでした。小川さんは、河合さんとお仕事をされたことがあって、たぶん、河合さんのことをとても尊敬されていたのでしょう。そういう気持ちがにじみ出ていました。自分も、河合さんのことがとても好きだったので、久しぶりに読んでみたいと思ったのです。
 読んでみて驚いたのは、家族の思いやりの細やかさです。
 例えば、小学生であったハァちゃんが作文を書くくだりがあります。担任の先生に見たとおり、感じたとおり書くのがいい作文だ、といわれてハァちゃんは悩みます。そして、自分でも違和感を感じつつ、ちょっといい子ぶったものを書いて提出してしまうのですが、なぜかそこのところを、担任の先生はみんなの前でほめてしまう。そのためにハァちゃんはもっと悩んでしまいます。
 そしてさらに悪いことに、お父さんまでもがそこのところをほめて、家族みんなの前で読み聞かせます。ハァちゃんの悩みはますます深まるのですが、兄弟たちがきちんとわかってくれていて、次の朝、家の掃除を一緒にするときに、「戦地におられる博兄さんのことを思い、頑張って雑巾がけをしよう!」とそれとなくハァちゃんの作文のいい子ぶったところを引用して、からかうのです。
 それを聞いて、ハァちゃんは、自分の作文が「つくりもの」だったこと、その「つくりもの」の作文をみんなの前でよまれたことの恥ずかしさを兄さんたちがわかってくれたこと、がわかって胸が熱くなるのです。
 ああ、すごいな。この思いやり。その表現の仕方。粋だなあ。
泣き虫ハァちゃん (新潮文庫)泣き虫ハァちゃん (新潮文庫)
(2010/05/28)
河合 隼雄

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プロフィール

ルーシェンカ

Author:ルーシェンカ
長野県の小海町で家具を製作しています。
家具のこと、木のこと、森のこと、その他の身の回りのことを紹介していきたいと思います。
メールアドレス atsushitakahashi@nexyzbb.ne.jp

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